大河ドラマ「どうする家康」 の放送が始まり、注目が集まっている徳川家康。
大半を人質として過ごした幼少期、主君の戦死、故郷からの転封命令など彼の人生はまさに「どうする?」の連続でした。
徳川家康クイズで、数々の困難を乗り越え278年間続く江戸幕府を開いた開祖の歴史に触れてみましょう。
家康を含む戦国三英傑、織田信長クイズ・豊臣秀吉クイズも用意しています。
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徳川家康クイズで家康の偉大な一生を試験的に探求した後、なぜ彼が現代の日本社会にまだ大きな影響を及ぼしているのか詳しく調べてみてはいかがでしょうか。
彼の戦略や理念が現代のビジネスや文化にどう影響を与えているかについては、「戦国時代の最も影響力のある武将ランキング」の記事で詳しく解説しています。
このクイズの作成者
家康の成功の秘訣として健康指向の強さがあります。食べすぎ・飲みすぎを控え、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させるほどでした。その結果、家康59歳での関ヶ原の合戦、豊臣家滅亡の74歳まで指揮を執り、75歳まで生きたのでした。出典
クイズの答えと解説
1問目の答え
家康の生年月日は?
答え:1543年1月31日
解説:家康が生まれたのは、1543年1月31日(天文11年12月26日)です。岡崎城主安城松平家4代当主の嫡男として、岡崎城で生まれました。
2問目の答え
家康の父親は?
答え:松平広忠
解説:松平広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将で三河国額田郡岡崎城主です。水野大子との間に竹千代(家康)をもうけますが、24歳という若さで死去しました。
3問目の答え
6歳で今川氏への人質として送られるはずだった竹千代(家康)は、結局どこに送られた?
答え:織田家
解説:1547年8月2日、竹千代(家康の幼名)は6歳の時に今川氏に人質として駿府に送られることになりました。しかし、駿府への旅の途中で田原城に立ち寄ったところ、竹千代の義母の父である戸田康光に裏切られ、尾張国の織田信秀に送られることになりました。ここで信長に出会っていたかは不明です。
4問目の答え
今川氏と断交して信長と同盟した「清洲同盟」は何年に結ばれた?
答え:1561年
解説:清洲同盟(きよすどうめい)は、戦国時代の1561年(永禄4年)に尾張の戦国大名・織田信長と三河の戦国大名・松平家康(後の徳川家康)との間で結ばれた軍事同盟です。家康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と家康との間で会見が持たれた上で同盟が締結されたことから、清洲同盟と呼ばれています。
5問目の答え
三方ヶ原の戦いで武田氏に惨敗した家康が「空城計」を用いたとされる城は?
答え:浜松城
解説:武田軍の策略により徳川・織田の連合軍は撃破され、浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火(かがりび)を焚き、いわゆる空城計を行ったと伝えられています。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げました。
6問目の答え
本能寺の変で三河に帰還する、いわゆる「伊賀越え」で現地民の協力を得るなどの貢献したのは?
答え:服部半蔵
解説:服部半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍し、代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主です。家康に仕えて「伊賀越え」などで貢献したのは2代目服部半蔵です。
7問目の答え
織田信雄と同盟を結んだ家康が羽柴秀吉と戦ったのは?
答え:小牧・長久手の戦い
解説:小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、1584年(天正12年)に羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄との間で行われた戦いです。尾張国の小牧山城や犬山城をめぐって激しい攻防が繰り広げられましたが、最終的には決着がつかずに和睦しました。
8問目の答え
小田原征伐の後、関八州への移封よって家康の領地は119万石から何万石になった?
答え:250万石
解説:1590年(天正18年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州(250万石)に移封されました。石高だけで見れば大幅な加増ですが、先祖相伝の地三河から引き離され、当時は未開発の地が多かった関八州への移封は、その後の日本に大きな影響を与えることになります。
9問目の答え
家康も任命された五大老、毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家、あと一人は?
答え:小早川隆景
解説:小早川隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、竹原小早川家第14代当主です。豊臣秀吉の信任を受け、五大老の一人に任じられた他、秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲りました。
10問目の答え
関ケ原の戦いで大勢が決する中、家康の本陣目前にまで突撃してきたのは?
答え:島津義弘
解説:島津義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名で、島津氏の第17代当主です。島津隊は退路を遮断され敵中に孤立しましたが、前方の敵の大軍の中を突破することを決意し、家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下して敵中突破に成功しました。
11問目の答え
1601年、浦賀を開港するなど家康が外交していた国は?
答え:スペイン
解説:1601年の正月、家康は、スペインが支配するフィリピン周辺の海域で私貿易船をなくすために、フィリピン総督に向けて手紙を送りました。その手紙の中で、日本とフィリピンの間で公正な貿易が行われるために、朱印状と呼ばれる公式の証明書を交付することを伝えました。
12問目の答え
家康が征夷大将軍に任命されたのは何年?
答え:1603年
解説:1603年(慶長8年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康が征夷大将軍に任命されました。足利義昭が1588年に解任されてから空白だった征夷大将軍はこれ以降、徳川家の世襲となりました。
13問目の答え
1605年、家康は将軍職を誰に譲った?
答え:徳川秀忠
解説:徳川秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、江戸幕府の第2代征夷大将軍です。1605年(慶長10年)家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、秀忠は第2代将軍に任じられました。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになりました。
14問目の答え
大坂冬の陣において、「真田丸の戦い」で大敗を喫した家康が、その後にとった作戦は?
答え:大砲を撃ち続けた
解説:真田丸の戦いで大敗した家康ですが、総攻撃の提案を「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と却下し、全軍より一斉砲撃が始められました。本丸への砲撃で淀殿は和議に応ずる事を決めたとされています。
15問目の答え
豊臣家を滅ぼした家康が、諸大名を伏見城に集めて、諸大名統制のために発布した法令は?
答え:武家諸法度
解説:武家諸法度(ぶけしょはっと)は、江戸時代初期の1615年に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法です。武士の身分や家格に基づく秩序、兵制や軍事組織の規定、幕府の支配下にある領地や藩の統治方法などが定められています。
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