豊臣秀吉クイズ

豊臣秀吉

出自に謎は多いものの、雑用などを行う小物から天下人へと成り上がった秀吉は、日本における立身出世の代表格です。

豊臣秀吉クイズで、チャンスと人の心を掴む天才である彼の生涯を振り返ってみましょう。

秀吉を含む戦国三英傑織田信長クイズ徳川家康クイズも用意しています。

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四択クイズ

豊臣秀吉クイズ

合格ライン60点~

1 / 15

1) 秀吉の生年月日は?

2 / 15

2) 秀吉が最初に仕えた主は?

3 / 15

3) 1561年に秀吉は結婚。その相手は?

4 / 15

4) 1569年、毛利元就に依頼を受けた信長は秀吉を大将とした軍2万を派兵。その攻撃目標は?

5 / 15

5) 浅井長政攻めの功で領地を与えられた秀吉が築城した城の名前は?

6 / 15

6) 信長の命令で毛利輝元の勢力圏であった中国地方に攻め入った秀吉は、播磨国で優秀な軍師を得ます。その人物の名は?

7 / 15

7) 信長を裏切った別所長治が立て籠もる三木城に対し秀吉がとった戦法は?

8 / 15

8) 秀吉が行った「高松城の水攻め」は現在の何県?

備中高松城の戦い

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9 / 15

9) 織田信長を討った明智光秀の軍勢と、備中(岡山)から京都に軍を返した秀吉が激突した戦いの名は?

10 / 15

10) 次のうち「賤ヶ岳の七本槍」ではないのは?

賤ヶ岳の戦い

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11 / 15

11) 「小牧・長久手の戦い」で、徳川と連合し秀吉と戦ったのは?

小牧・長久手の戦い

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12 / 15

12) 秀吉の九州攻めで間違っているのはどれ?

13 / 15

13) 小田原征伐で秀吉に降伏後、高野山に追放された北条氏の当主は?

小田原城

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14 / 15

14) 朝鮮出兵のための前線基地として秀吉が築いた城は?

釜山鎮の戦い(1592年)

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15 / 15

15) 秀吉の辞世の句、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 〇〇」。〇〇に入る句は?

あなたの正解数は

クイズ挑戦者の平均正解率は 53%

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このクイズの作成者
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「小牧・長久手の戦い」で局所的には勝利した家康ですが、連合していた織田信雄の単独講和などにより秀吉包囲網は瓦解します。そして四国を平定するなどさらに戦力を伸ばした秀吉は家康討伐を計画していたとされています。しかし、マグニチュード(M)8クラス、最大震度6の「天正大地震」が日本列島中央部を襲い、対家康前線基地である大垣城が全壊焼失するなど戦争準備どころではなくなりました。この地震が無ければ秀吉の総攻撃で徳川家は滅亡していた可能性もあり、日本の歴史を変えた天災と言えます。出典

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クイズの答えと解説

1問目の答え

 秀吉の生年月日は?

答え:1537年3月17日

解説:秀吉が生まれたのは、1537年3月17日(天文6年2月6日)とされています。ただし、両親や生誕地など確実な資料が残されておらず、出自は不明な点が多いです。

2問目の答え

秀吉が最初に仕えた主は?

答え:松下之綱

解説:秀吉(当時は木下藤吉郎)の最初の主君は、今川義元の家臣の家臣であった『松下之綱』(まつした ゆきつな)です。秀吉に武芸・学問・兵法などを教えたとされていますが、数年後には主従が逆転して秀吉の配下となっています。

3問目の答え

1561年に秀吉は結婚。その相手は?

答え:ねね

解説:『ねね』(高台院)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性で、豊臣秀吉の正室です。1561年(永禄4年)に当時としては珍しい恋愛結婚、しかも母親の反対を押し切って秀吉と結婚しました。

4問目の答え

1569年、毛利元就に依頼を受けた信長は秀吉を大将とした軍2万を派兵。その攻撃目標は?

答え:山名祐豊

解説:毛利元就が九州で大友氏と交戦している隙をついて、かつて元就に滅ぼされた尼子氏残党が挙兵し、『山名祐豊』(やまな すけとよ)がこれを支援しました。元就は、信長に山名氏の背後を脅かすよう依頼し、秀吉が派兵されました。秀吉はわずか10日間で18城を落城させました。

5問目の答え

浅井長政攻めの功で領地を与えられた秀吉が築城した城の名前は?

答え:長浜城

解説:『長浜城』(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市に存在した城(現在は城跡)です。浅井長政との戦で功をあげた秀吉は、当時「今浜」と呼ばれていた土地を与えられます。秀吉は信長から一字を拝領し「長浜」と改名し、自身初めてとなる城を築きました。

6問目の答え

信長の命令で毛利輝元の勢力圏であった中国地方に攻め入った秀吉は、播磨国で優秀な軍師を得ます。その人物の名は?

答え:黒田官兵衛

解説:『黒田官兵衛』(黒田孝高)は、播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師です。秀吉の中国攻めにあたり、居城であった姫路城の本丸を秀吉に提供し、参謀として活躍するようになりました。ただし、この時点では信長に服属していた小寺家の家老であり、正式に秀吉の家臣となるのは少し先のことです。

7問目の答え

信長を裏切った別所長治が立て籠もる三木城に対し秀吉がとった戦法は?

答え:兵糧攻め

解説:1578年(天正6年)に織田家に反旗を翻した別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城しました。秀吉は三木城の支城を攻略、また毛利氏からの兵糧の輸送を阻止し、1年10か月にわたる兵糧攻めを行い、別所長治(べっしょ ながはる)は降伏しました。三木城内の食料は底をついていたため「三木の干殺し」と呼ばれています。

8問目の答え

秀吉が行った「高松城の水攻め」は現在の何県?

答え:岡山県

解説:『高松城』(たかまつじょう)は、岡山県岡山市北区高松に存在した日本の城で、讃岐高松城と区別して備中高松城とも呼ばれます。高松城を水攻めにし包囲していた秀吉ですが、「本能寺の変」の急報を経て急ぎ毛利方を講和します。そして3万の軍勢を約10日間で京まで移動させる「中国大返し」を行いました。

9問目の答え

織田信長を討った明智光秀の軍勢と、備中(岡山)から京都に軍を返した秀吉が激突した戦いの名は?

答え:山崎の戦い

解説:『山崎の戦い』(やまざきのたたかい)は、1582年7月2日(天正10年6月13日)に発生した合戦です。信長を討ち京都を抑えた光秀でしたが、縁戚であった細川藤孝・忠興父子などが光秀の誘いを拒絶、さらに秀吉の「中国大返し」で準備不足のまま合戦になりました。秀吉の戦力20,000~40,000に対し光秀は10,000~16,000で、明智軍はやがて総崩れとなり光秀は死亡しました。

10問目の答え

次のうち「賤ヶ岳の七本槍」ではないのは?
A. 蒲生氏郷
B. 糟屋武則
C. 片桐且元
D. 福島正則

答え:蒲生氏郷

解説:『賤ヶ岳の七本槍』(しずがたけ の しちほんやり)とは、賤ヶ岳(現:滋賀県)付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いにおいて功名をあげた秀吉方の人物です。脇坂安治・片桐且元・平野長泰・福島正則・加藤清正・糟屋武則・加藤嘉明の7人であり、蒲生氏郷は秀吉に恐れられるほどの家臣ですが賤ヶ岳の七本槍ではありません。

11問目の答え

「小牧・長久手の戦い」で、徳川と連合し秀吉と戦ったのは?

答え:織田

解説:『小牧・長久手の戦い』(こまき・ながくてのたたかい)は、1584年(天正12年)に羽柴秀吉(陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いです。自身の扱いをめぐって秀吉と険悪だった信長の次男、織田信雄(おだ のぶかつ、のぶお)が秀吉に宣戦布告し徳川家康がそれに呼応する形で勃発しました。

12問目の答え

秀吉の九州攻めで間違っているのはどれ?
A. まず、毛利輝元・長宗我部元親・十河存保などの中・四国勢が派遣された
B. 大友氏と争っていた島津氏が停戦命令を拒否したので出兵した
C. 秀吉は大坂に留まり、そこで指示を出した
D. 肥後方面軍を秀吉自身が、日向方面軍を弟の秀長が率いた

答え:秀吉は大阪に留まり、そこで指示を出した

解説:島津氏は九州平定を目前にしており、豊後(大分)の大友宗麟(義鎮)は秀吉に助けを求めます。関白となっていた秀吉は、1585年(天正13年)島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令しますが島津氏をこれを拒否。まずは、毛利輝元・長宗我部元親・十河存保などの中・四国勢を派遣し、後に肥後方面軍を秀吉自身が、日向方面軍を弟の秀長が率いる20万-27万の大軍をもって九州を平定しました。

13問目の答え

小田原征伐で秀吉に降伏後、高野山に追放された北条氏の当主は?

答え:北条氏直

解説:『北条氏直』(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、後北条氏の第5代当主です。約3ヶ月にわたる小田原城包囲の後に秀吉に降伏後、徳川家康の娘と結婚していたこともあり切腹を免れて高野山に追放されました。その後、赦免され豊臣大名として復活しましたが、まもなく病死しました。

14問目の答え

朝鮮出兵のための前線基地として秀吉が築いた城は?

答え:名護屋城

解説:『名護屋城』(なごやじょう)は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市)にあった日本の城です。文禄の役(ぶんろくのえき)を始める前に、前線基地として秀吉が築かせました。尾張(現:愛知県西部)にあったのは那古野城です。

15問目の答え

秀吉の辞世の句、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 〇〇」。〇〇に入る句は?

答え:夢のまた夢

解説:自分の死が近いことを悟った秀吉は、五大老などへ二度にわたって遺言状を記しました。また、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼するなど、後継者である秀頼の身を案じていました。秀吉の死後、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定されました。

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