関ヶ原の戦いクイズ

関ヶ原合戦図屏風

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、あわせて10万以上の軍勢が戦う天下分け目の大戦が行われました。

全国各地の大名や豊臣恩顧の武将たちが東西に分かれ、それぞれの大義、それぞれの思惑で戦ったこの世紀の大決戦、関ヶ原の戦いをクイズにしました。

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四択クイズ

関ヶ原の戦いクイズ

合格ライン60点~

1 / 15

1) 東軍の総大将は徳川家康、では西軍の総大将は?

2 / 15

2) 西軍が敗走するきっかけとなる裏切りをしたのは小早川秀秋と小川祐忠、あと一人は?

脇阪安治

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3 / 15

3) 関ケ原は現在の何県にある?

関ケ原町

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4 / 15

4) 石田三成に仕えて兵500を率い、中村一栄・有馬豊氏に勝利するなど「治部少(三成)に過ぎたるもの」と評された武将は?

島左近

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5 / 15

5) 西軍方が崩壊し、周りが敵だらけとなった島津家(兵数300)がとった行動は?

島津義弘

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6 / 15

6) 西軍の人質となることを拒み、壮絶な最後を遂げた細川忠興の妻・ガラシャの父親は?

細川忠興、ガラシャ像

7 / 15

7) 東軍総大将である徳川家康部隊の兵力は?

徳川家康

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8 / 15

8) 北の関ヶ原と言われる「慶長出羽合戦」、伊達政宗と連合を組んで西軍の上杉景勝と戦ったのは?

最上義光

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9 / 15

9) 関ケ原に西軍として布陣したが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表したのは?

長宗我部盛親

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10 / 15

10) 大谷吉継の説明として間違っているのはどれ?

大谷吉継

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11 / 15

11) 家康の重臣で、兜や鎧など全ての装備品を赤色で統一したのは?

井伊の赤備え

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12 / 15

12) 真田昌幸と徳川秀忠の戦いについて正しいのはどれ?

真田昌幸

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13 / 15

13) もともとは北条氏の家臣で、小早川秀秋に裏切るよう説得した人物は?

14 / 15

14) 家康から伊達政宗に宛てた書状には、10時に始まった合戦は何時に終了したと書かれている?

15 / 15

15) 関ヶ原の戦い本戦において西軍最大の兵力で参戦し、敗戦後に配流された八丈島で84歳まで生きた大名は?

宇喜多秀家

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小早川秀秋らの東軍への裏切りが有名ですが、東軍から西軍へ裏切った武将もいます。遠藤胤直織田秀雄小野寺義道前田利政宮部長房山川朝信などがいますが、戦後いずれも改易処分となっています。出典

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クイズの答えと解説

1問目の答え

東軍の総大将は徳川家康、では西軍の総大将は?

答え:毛利輝元

解説:『毛利輝元(もうり てるもと)』は、毛利氏の14代当主です。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となりましたが、終結まで城から出陣することはありませんでした。

2問目の答え

西軍が敗走するきっかけとなる裏切りをしたのは小早川秀秋と小川祐忠、あと一人は?

答え:脇坂安治

解説:『脇坂安治(わきざか やすはる)』は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名です。羽柴秀吉の家臣として賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられましたが、関ヶ原の戦いでは小早川隊が大谷吉継隊を攻撃したのに乗じて東軍に寝返りました。

3問目の答え

関ケ原は現在の何県にある?

答え:岐阜

解説:関ヶ原の戦いは、岐阜県不破郡関ケ原町を主戦場として行われました。主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっています。

4問目の答え

石田三成に仕えて兵500を率い、中村一栄・有馬豊氏に勝利するなど「治部少(三成)に過ぎたるもの」と評された武将は?

答え:島左近

解説:『島左近(島清興)』は、戦国時代から安土桃山時代の武将です。石田三成に破格の待遇で家臣に迎えられ杭瀬川の戦いに勝利しましたが、関ヶ原の戦い本戦で敗れて戦死しました。

5問目の答え

西軍方が崩壊し、周りが敵だらけとなった島津家(兵数300)がとった行動は?

答え:正面突破した

解説:敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸(すてがまり)戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から離脱を図りました。捨て奸戦法とは、本隊が撤退する際に小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする戦法です。

6問目の答え

西軍の人質となることを拒み、壮絶な最後を遂げた細川忠興の妻・ガラシャの父親は?

答え:明智光秀

解説:『明智光秀(あけち みつひで)』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。光秀の三女である玉(珠)は、細川忠興に嫁いだ後に密かにキリシタンの洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を受けました。

7問目の答え

東軍総大将である徳川家康部隊の兵力は?

答え:約30,000

解説:『日本戦史関ヶ原役』に拠ると、徳川家康の兵力は約30,000だと推測されています。これは、石高100石あたり3人で算出した動員可能兵力の推測値です。

8問目の答え

北の関ヶ原と言われる「慶長出羽合戦」、伊達政宗と連合を組んで西軍の上杉景勝と戦ったのは?

答え:最上義光

解説:『最上義光(もがみよしあき)』は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名です。戦力で劣る最上軍ですが上杉軍の攻撃を防ぎ、足止めした功績により、石高240,000から570,000に加増されました。

9問目の答え

関ケ原に西軍として布陣したが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表したのは?

答え:長宗我部盛親

解説:『長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)』は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将です。関ヶ原の戦いでは、戦わずに帰国し徳川氏に謝意を表しましたが、重臣たちが浦戸一揆を起こしたことで、領国を没収され浪人となりました。その後、大坂の陣において大坂方として参戦しました。

10問目の答え

大谷吉継の説明として間違っているのはどれ?
A. 小早川秀秋の裏切りを予見していた
B. 真田信繁(幸村)の妻の父である
C. 関ケ原以前から徳川家康と険悪だった
D. 関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍を指揮した

答え:関ケ原以前から徳川家康と険悪だった

解説:『大谷吉継(おおたに よしつぐ)』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。徳川邸襲撃の風聞が立った際には、徳川邸に参じ家康を警護し、また兵3,000を率いて家康の上杉討伐軍に参加しようとするなど、家康とも懇意でした。

11問目の答え

家康の重臣で、兜や鎧など全ての装備品を赤色で統一したのは?

答え:井伊直政

解説:『井伊直政(いい なおまさ)』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名です。井伊直政の部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、武田家重臣の山県昌景(やまがた まさかげ)の朱色の軍装を継承し井伊の赤備えと呼ばれました。

12問目の答え

真田昌幸と徳川秀忠の戦いについて正しいのはどれ?

答え:真田昌幸は降伏を申し出た翌日にそれを破棄した

解説:徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢に対し、昌幸は助命を懇願し、秀忠はこれを受諾しましたが、翌日には態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったため戦闘状態に入りました。

13問目の答え

もともとは北条氏の家臣で、小早川秀秋に裏切るよう説得した人物は?

答え:板部岡江雪斎

解説:『板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)』は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、外交僧です。小田原攻めで後北条氏が滅びた後に豊臣秀吉に仕え、その後、徳川家康に接近して小早川秀秋の説得にあたりました。

14問目の答え

家康から伊達政宗に宛てた書状には、10時に始まった合戦は何時に終了したと書かれている?

答え:12時

解説:9月15日付伊達政宗宛家康書状には午の刻(午後12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとあります。

15問目の答え

関ヶ原の戦い本戦において西軍最大の兵力で参戦し、敗戦後に配流された八丈島で84歳まで生きた大名は?

答え:宇喜多秀家

解説:『宇喜多秀家(うきた ひでいえ)』は、安土桃山時代の武将・大名です。関ヶ原の戦い本戦では、約17,000と西軍最大の兵力で参戦しました。敗戦後に島津氏に匿われますが、家康のもとへ身柄を引き渡され、八丈島へ配流されました。そのまま八丈島で過ごし、84歳で亡くなった時には江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世でした。

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