慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、あわせて10万以上の軍勢が戦う天下分け目の大戦が行われました。
全国各地の大名や豊臣恩顧の武将たちが東西に分かれ、それぞれの大義、それぞれの思惑で戦ったこの世紀の大決戦、関ヶ原の戦いをクイズにしました。
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慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、あわせて10万以上の軍勢が戦う天下分け目の大戦が行われました。
全国各地の大名や豊臣恩顧の武将たちが東西に分かれ、それぞれの大義、それぞれの思惑で戦ったこの世紀の大決戦、関ヶ原の戦いをクイズにしました。
答え:毛利輝元
解説:『毛利輝元(もうり てるもと)』は、毛利氏の14代当主です。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となりましたが、終結まで城から出陣することはありませんでした。
答え:脇坂安治
解説:『脇坂安治(わきざか やすはる)』は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名です。羽柴秀吉の家臣として賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられましたが、関ヶ原の戦いでは小早川隊が大谷吉継隊を攻撃したのに乗じて東軍に寝返りました。
答え:岐阜
解説:関ヶ原の戦いは、岐阜県不破郡関ケ原町を主戦場として行われました。主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっています。
答え:島左近
解説:『島左近(島清興)』は、戦国時代から安土桃山時代の武将です。石田三成に破格の待遇で家臣に迎えられ杭瀬川の戦いに勝利しましたが、関ヶ原の戦い本戦で敗れて戦死しました。
答え:正面突破した
解説:敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸(すてがまり)戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から離脱を図りました。捨て奸戦法とは、本隊が撤退する際に小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする戦法です。
答え:明智光秀
解説:『明智光秀(あけち みつひで)』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。光秀の三女である玉(珠)は、細川忠興に嫁いだ後に密かにキリシタンの洗礼を受け、ガラシャという洗礼名を受けました。
答え:約30,000
解説:『日本戦史関ヶ原役』に拠ると、徳川家康の兵力は約30,000だと推測されています。これは、石高100石あたり3人で算出した動員可能兵力の推測値です。
答え:最上義光
解説:『最上義光(もがみよしあき)』は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名です。戦力で劣る最上軍ですが上杉軍の攻撃を防ぎ、足止めした功績により、石高240,000から570,000に加増されました。
答え:長宗我部盛親
解説:『長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)』は、安土桃山時代から江戸時代前期の土佐国の大名・武将です。関ヶ原の戦いでは、戦わずに帰国し徳川氏に謝意を表しましたが、重臣たちが浦戸一揆を起こしたことで、領国を没収され浪人となりました。その後、大坂の陣において大坂方として参戦しました。
答え:関ケ原以前から徳川家康と険悪だった
解説:『大谷吉継(おおたに よしつぐ)』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。徳川邸襲撃の風聞が立った際には、徳川邸に参じ家康を警護し、また兵3,000を率いて家康の上杉討伐軍に参加しようとするなど、家康とも懇意でした。
答え:井伊直政
解説:『井伊直政(いい なおまさ)』は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名です。井伊直政の部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、武田家重臣の山県昌景(やまがた まさかげ)の朱色の軍装を継承し井伊の赤備えと呼ばれました。
答え:真田昌幸は降伏を申し出た翌日にそれを破棄した
解説:徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢に対し、昌幸は助命を懇願し、秀忠はこれを受諾しましたが、翌日には態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったため戦闘状態に入りました。
答え:板部岡江雪斎
解説:『板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい)』は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、外交僧です。小田原攻めで後北条氏が滅びた後に豊臣秀吉に仕え、その後、徳川家康に接近して小早川秀秋の説得にあたりました。
答え:12時
解説:9月15日付伊達政宗宛家康書状には午の刻(午後12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとあります。
答え:宇喜多秀家
解説:『宇喜多秀家(うきた ひでいえ)』は、安土桃山時代の武将・大名です。関ヶ原の戦い本戦では、約17,000と西軍最大の兵力で参戦しました。敗戦後に島津氏に匿われますが、家康のもとへ身柄を引き渡され、八丈島へ配流されました。そのまま八丈島で過ごし、84歳で亡くなった時には江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世でした。
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