戦国武将クイズ

上杉謙信

戦国時代、日本は多くの英雄的な武将たちによって彩られました。

彼らの英勇な伝説は、今日まで多くの人々に語り継がれています。

一代で領土を飛躍的に拡大した武将、戦国最弱と言われる武将など評価は様々ですが、共通するのは皆が現代でも愛され続けていることです。

そんな戦国武将を題材にした、画像クイズを用意しました。

このクイズを通じて、あなたも戦国時代の一員となった気分を味わってください。

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633

四択クイズ

戦国武将クイズ

合格ライン60点~

1 / 15

六文銭の家紋が有名で、「日本一の兵」とも評されました。

真田信繁

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2 / 15

主君を裏切った人物ですが、領民から愛された武将で、現在も功績を称える地域が数多くあります。

明智光秀

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3 / 15

武器は「天下三名槍」の一つ「蜻蛉切」(とんぼきり)です。

本多忠勝

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4 / 15

36歳の若さで病に倒れた天才軍師で、今孔明とも呼ばれました。

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5 / 15

「関ヶ原の戦い」に西軍として参戦し、改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名です。

立花宗茂

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6 / 15

武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使いました。

上杉謙信

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7 / 15

「賤ヶ岳の七本槍」の一人で、虎退治の逸話があります。

加藤清正

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8 / 15

武田四天王の一人で、軍装を赤一色に統一した「赤備え」は最強部隊の代名詞となりました。

山県昌景

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9 / 15

「釣り野伏せ」戦法の考案者で数倍・数十倍の相手を撃破しました。

島津義弘

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10 / 15

治部少輔。秀吉の天下統一を奉行として支えました。

石田三成

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11 / 15

一代で中国地方のほぼ全域を制覇した策略家です。

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12 / 15

剣聖と讃えられる剣豪の一人で、弟子には柳生宗厳などがいます。

上泉信綱

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13 / 15

関東に覇を唱え、上杉謙信や武田信玄と互角に争った名将です。

北条氏康

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14 / 15

「戦国最弱の大名」などと低く評価されています。

小田氏治

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15 / 15

信長・秀吉・家康の3人に認められた軍師です。

黒田孝高

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あなたの正解数は

クイズ挑戦者の平均正解率は 71%

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成績上位TOP10

番号ユーザー名正解率時間成績
1ゲストさん100 %29 秒15 / 15
2ゲストさん100 %37 秒15 / 15
3ゲストさん100 %41 秒15 / 15
4ゲストさん100 %44 秒15 / 15
5ゲストさん100 %49 秒15 / 15
6ゲストさん100 %50 秒15 / 15
7ゲストさん100 %53 秒15 / 15
8ゲストさん100 %56 秒15 / 15
9ゲストさん100 %59 秒15 / 15
10ゲストさん100 %1 分 2 秒15 / 15
このクイズの作成者
クイズサイト.jp

戦国武将としての人気だけでなく、後世に数々の影響を残したのが『伊達政宗』です。まず、「伊達者(だてもの)」の語源は、文禄の役従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束が非常に絢爛豪華なもので、京都の住民がその見事さに歓声を上げたことが発端です。また料理研究家としても有名で、納豆や仙台味噌の開発、そして「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という政宗の料理観は世界中の料理人に感銘を与えました。出典

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クイズの答えと解説

1問目の答え

六文銭の家紋が有名で、「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)とも評されました。
真田信繁

答え:真田幸村

解説:『真田幸村』(さなだ ゆきむら)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、幸村の名で広く知られていますが、本名は信繁(のぶしげ)です。関ヶ原の合戦で西軍だったため高野山に配流されましたが、大坂夏の陣において豊臣方の武将として参陣、徳川家康を追い詰めました。

2問目の答え

主君を裏切った人物ですが、領民から愛された武将で、現在も功績を称える地域が数多くあります。
明智光秀

答え:明智光秀

解説:『明智光秀』(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名です。主君・信長を裏切り討ち取った人物として知られる光秀ですが、領民を愛して善政を行い、家臣に対しても異例な気遣いを見せています。京都府亀岡市では、光秀を偲んで「亀岡光秀まつり」が行われています。

3問目の答え

武器は「天下三名槍」の一つ「蜻蛉切」(とんぼきり)です。
本多忠勝

答え:本多忠勝

解説:『本多忠勝』(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名です。「桶狭間の戦い」から家康に従い数々の戦場を駆け回り、「二俣城の戦い」や「本能寺の変」などで主君の命を守りました。生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及び、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。

4問目の答え

36歳の若さで病に倒れた天才軍師で、『今孔明』とも呼ばれました。

答え:竹中半兵衛

解説:『竹中半兵衛』(たけなか はんべえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、軍師です。秀吉に従って中国遠征に参加した半兵衛は、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させるなど活躍しましたが、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れ36歳で死去しました。通称の半兵衛(はんべえ)が有名ですが、本名は竹中重治(たけなか しげはる)です。

5問目の答え

「関ヶ原の戦い」に西軍として参戦し、改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名です。
立花宗茂

答え:立花宗茂

解説:『立花宗茂』(たちばな むねしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。築後柳川(福岡県柳川市)の大名だった宗茂は「関ヶ原の戦い」は、家康の誘いを断り西軍に参加し改易されます。その後浪人生活を送っていましたが、宗茂の実力を知っていた家康に取り立てられ大名に復帰した後、ついに旧領である筑後柳川10万9,200石を与えられました。

6問目の答え

武神毘沙門天(びしゃもんてん)の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使いました。
上杉謙信

答え:上杉謙信

解説:『上杉謙信』(うえすぎ けんしん)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名です。戦略家・戦術家として優れた武将でしたが、家臣同士の抗争や一揆などに悩まされ天下統一には届きませんでした。武田信玄と五度にわたり戦った「川中島の戦い」が有名です。

7問目の答え

「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけ の しちほんやり)の一人で、虎退治の逸話があります。
加藤清正

答え:加藤清正

解説:『加藤清正』(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。幼い頃から秀吉に仕え、柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」では敵武将を討ち取ることで「賤ヶ岳の七本槍」に数えられました。虎退治の逸話などから武勇の人との印象が強いですが、築城や農業政策に優れた人物でした。

8問目の答え

武田四天王の一人で、軍装を赤一色に統一した「赤備え」(あかぞなえ)は最強部隊の代名詞となりました。
山県昌景

答え:山県昌景

解説:『山県昌景』(やまがた まさかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、武田四天王の一人に数えられています。山県隊があまりにも強すぎ、部隊の軍装が赤一色だったため「赤備え」として諸大名から畏怖されるほどでした。井伊直政や真田信繁(幸村)の赤も、昌景の影響です。

9問目の答え

「釣り野伏せ」戦法の考案者で数倍・数十倍の相手を撃破しました。
島津義弘

答え:島津義弘

解説:『島津義弘』(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名です。考案した戦法の釣り野伏せで「木崎原の戦い」300 vs 3,000、「泗川の戦い」2,000 vs 100,000に勝利。「関ケ原の戦い」では敵陣を正面突破して退却する「島津の退き口」を行いました。

10問目の答え

治部少輔。秀吉の天下統一を奉行として支えました。
石田三成

答え:石田三成

解説:『石田三成』(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名です。主に後方支援で秀吉の天下統一に大いに貢献しましたが、一方で加藤清正や福島正則など秀吉の古参部下と対立。徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織しましたが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑されました。

11問目の答え

一代で中国地方のほぼ全域を制覇した策略家です。

答え:毛利元就

解説:『毛利元就』(もうり もとなり)は、中国地方の武将・大名、毛利氏の第12代当主です。安芸国の一地域の領主にすぎなかった元就は徐々に勢力を拡大、「厳島の戦い(いつくしまのたたかい)」では3000〜4000程度の兵で20,000〜30,000の陶晴賢を破り、尼子軍を策略で内部から崩壊させるなどして中国地方のほぼ全域を手中にしました。

12問目の答え

剣聖と讃えられる剣豪の一人で、弟子には柳生宗厳などがいます。
上泉信綱

答え:上泉信綱

解説:『上泉信綱』(かみいずみ のぶつな)は戦国時代の兵法家で新陰流の開祖です。兵法家として陰流・神道流・念流などの諸流派を学び新陰流を大成しました。門下には柳生宗厳などがおり、戦国最強の剣豪と言われています。

13問目の答え

関東に覇を唱え、上杉謙信や武田信玄と互角に争った名将です。
北条氏康

答え:北条氏康

解説:『北条氏康』(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将・相模国の戦国大名で後北条氏第3代当主です。上杉朝定と上杉憲政が同盟を結び、今川義元や里見義堯を引き入れて北条包囲網を形成するという危機に陥りますが、策略を駆使・「河越夜戦」の夜襲で勢力を拡大します。その後は上杉謙信や武田信玄と互角に戦い続け、関東において北条氏に対抗できる大名は存在せず、後を継いだ氏政により、北条氏は最盛期を迎えることになります。

14問目の答え

「戦国最弱の大名」などと低く評価されています。
小田氏治

答え:小田氏治

解説:『小田氏治』(おだ うじはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての常陸の武将・戦国大名です。居城・小田城を幾度も敵に奪われ、大名小田氏最後の当主となったため、「戦国最弱の大名」と呼ばれることもあります。しかし、復活して何度も小田城を奪回するなど普通に力量はありました。

15問目の答え

信長・秀吉・家康の3人に認められた軍師です。
黒田孝高

答え:黒田官兵衛

解説:『黒田官兵衛』(くろだ かんべえ)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師です。軍事的才能に優れ、調略や他大名との交渉など、幅広い活躍をしました。「関ヶ原の戦い」では九州で軍事行動を起こし、敵方には「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられているほどでした。官兵衛・如水の名で知られていますが、正式には黒田孝高(くろだ よしたか)です。

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