日本史の中には数々の大合戦が存在します。
それぞれの合戦が日本の歴史を動かし、現代の日本を形成してきました。
このクイズでは、その名高い合戦について問題にしました。
”あなたならどうする?” ”もしも”があればどうなっていたかに思いをはせながら挑戦してください。
このクイズの作成者
石田三成が戦下手の烙印を押されることになる『忍城の戦い』ですが、水攻めを指示したのは秀吉であり、三成はそれを実行したに過ぎません。忍城攻めには大谷吉継・真田昌幸・真田信繁・直江兼続など名だたる大名・指揮官が参加しており、落城しなかった要害堅固な城と成田軍の奮闘が際立っています。出典
1問目の答え
672年に起きた古代日本最大の内乱で、大友皇子と大海人皇子が争ったのは?
答え:壬申の乱
解説:壬申の乱(じんしんのらん)は、飛鳥時代の673年に天武天皇(当時は大海人皇子)と大友皇子(後の弘文天皇)との間で起こった内乱です。最終的に大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は天武天皇として即位し、政治改革を行い中央集権化を進めました。
2問目の答え
1156年に起きた内乱で、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけとなった戦いは?
答え:保元の乱
解説:保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の1156年に、後白河天皇と崇徳上皇が皇位継承問題や摂関家の内紛を巡って対立し、武士の力を借りて争った内乱です。崇徳上皇方は藤原頼長や源為義などが参加しましたが、後白河天皇方は藤原忠通や平清盛、源義朝などが参加しました。後白河天皇方が奇襲攻撃を仕掛けて崇徳上皇方を破り、崇徳上皇は讃岐に配流され、頼長は死亡しました。この乱は武士の存在感を高め、武家政権への道筋を作りました。
3問目の答え
1160年の『平治の乱』で敗れた源氏の棟梁は?
答え:源義朝
解説:平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の1160年に、後白河上皇の側近である藤原通憲(信西)とその対立者である藤原信頼が武士の力を借りて争った内乱です。信頼は源義朝(みなもと の よしとも)と結び、通憲の不在中に三条殿を襲撃して通憲を自害に追い込みましたが、京都に戻った通憲の味方である平清盛が信頼らを六波羅で討ち取り、義朝も敗走後に死亡しました。この乱は平氏の台頭と源氏の衰退の契機となりました。
4問目の答え
平家が滅亡に至った『壇ノ浦の戦い』が起きたのはいつ?
答え:1185年
解説:壇ノ浦の戦いだんのうらのたたかい)とは、平安時代末期の1185年に、源氏と平氏の最終決戦となった海戦です。平氏は都落ちして西国に逃れていましたが、源義経率いる源氏軍に追い詰められ、彦島から壇ノ浦に水軍を出しました。平氏は敗北し、多くの武将や安徳天皇、二位尼などが入水しました。平氏は滅亡し、源頼朝が鎌倉幕府を開くことになりました。
5問目の答え
モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた鎌倉幕府の執権は?
答え:北条時宗
解説:元寇とは、鎌倉時代中期に、モンゴル帝国(元朝)とその属国である高麗が日本に侵攻した戦争のことです。この戦争で日本を守ったのは、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗(ほうじょう ときむね)でした。北条時宗は、モンゴルからの国書に応じず、九州の防備を固めて徹底抗戦しました。最初の侵攻は1274年に行われ、文永の役と呼ばれます。モンゴル・高麗軍は博多に上陸しましたが、日本軍の抵抗と暴風雨によって撤退しました 。二度目の侵攻は1281年に行われ、弘安の役と呼ばれます。モンゴル・高麗軍と旧南宋軍の合計約14万人が九州に来襲しましたが、日本軍の奮戦と台風によって壊滅しました。
6問目の答え
南北朝時代の『湊川の戦い』で敗れ最期を迎えたのは?
答え:楠木正成
解説:湊川の戦い(みなとがわのたたかい)は、南北朝時代の1336年に、九州から東上してきた足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成(くすのき まさしげ)の軍との間で行われた合戦です。足利軍は海陸から挟撃し、楠木正成を自害に追い込み、新田義貞を敗走させました。
7問目の答え
日本三大合戦とされるのは、『関ヶ原の戦い』『川中島の戦い』、あと一つは?
答え:筑後川の戦い
解説:筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代の1359年に九州で行われた最大の合戦です。南朝方(約40,000)の征西将軍懐良親王と菊池武光が、北朝方(約60,000)の少弐頼尚らを筑後川付近で破りました。この戦いで南朝方は太宰府を制圧し、九州は一時南朝の勢力下に入りました。
8問目の答え
1467年に発生した『応仁の乱』は何年まで続いた?
答え:1477年
解説:応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代に将軍の後継者争いをきっかけに起きた1467年から1477年までの約11年間続いた内乱です。東軍と西軍に分かれた守護大名たちが京都を中心に激しく戦い、京都は荒廃しました。この戦乱は戦国時代の始まりとされ、幕府の権威は大きく低下しました。
9問目の答え
日本三大奇襲の一つとされる北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍との合戦の名は?
答え:河越城の戦い
解説:河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に北条氏康と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏などの連合軍が武蔵国の河越城をめぐって争った一連の戦いです。その中でも、天文15年(1546年)に北条氏康が奇襲をかけて連合軍を破った戦いは「河越夜戦」と呼ばれ、日本三大奇襲の一つに数えられます。この戦いで北条氏は関東の覇権を確立し、上杉氏や古河公方は衰退しました。
10問目の答え
『川中島の戦い』について正しいのはどれ?
答え:武田軍参謀の山本勘助が戦死
解説:川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、戦国時代に甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信(長尾景虎)が信濃国(長野)の川中島で争った一連の戦い(第一次~第五次)です。その中でも、永禄4年(1561年)に上杉謙信が奇襲をかけて武田信玄と一騎討ちをした逸話がある戦いは「第四次川中島合戦」と呼ばれ、日本三大合戦の一つに数えられます。この戦いで上杉謙信は武田信玄の弟・武田信繁や重臣・山本勘助(やまもと かんすけ)などを討ち取りましたが、武田信玄は辛くも難を逃れました。
11問目の答え
『長篠の戦い』で大敗した武田方は信玄以来の重臣、武田四天王のうち何人が戦死した?
答え:3人
解説:長篠の戦い(ながしののたたかい)は、1575年に三河国の長篠城をめぐって織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の軍が衝突した合戦です。日本で初めて鉄砲が大量に使われた戦いとして知られており、織田・徳川連合軍は鉄砲と野戦築城で武田の騎馬隊を撃退しました。この戦いで武田氏は山県昌景、馬場信春、内藤昌豊などの重臣や指揮官が戦死するなど大きな損害を受け、その後の衰退につながりました。武田四天王の一人、高坂昌信(春日虎綱)は上杉軍の抑えとして海津城を守備しており、長篠の戦いには参戦していません。
12問目の答え
『関ヶ原の戦い』開戦時に小早川秀秋が陣取っていたのは?
答え:松尾山
解説:関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、1600年に豊臣秀吉の死後に起こった豊臣政権内部の政争を決着させるための合戦です。徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とする西軍が美濃国の関ヶ原で激突しました。松尾山(まつおやま)に陣取っていた小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍の大谷吉継隊を攻撃し大谷隊は壊滅。これにより大勢は決し、東軍が勝利して家康はその後江戸幕府を開きました。
13問目の答え
『大阪夏の陣』の説明として間違っているのは?
答え:豊臣方は、秀吉恩顧の大名が集い統制が取れていた
解説:大坂夏の陣(おおさかなつのじん)は、1615年に江戸幕府と豊臣家との間で行われた最後の合戦です。徳川家康と徳川秀忠を総大将とする約約16万5千の徳川軍と、豊臣秀頼を総大将とする約5万5千の豊臣軍が激突しました。秀頼の援軍要請に応じる大名はなく、金銀を用いて集めた浪人衆ばかりで寄せ集めの衆に過ぎないため統制がなかなかとれませんでしたが、真田信繁(幸村)や毛利勝永らの突撃によって家康本陣は混乱状態に陥いりました。三方ヶ原の戦い以降、倒れたことのなかった家康の馬印が倒れたほどでしたが、数に勝る徳川方が押し返しました。士気を高めるため、豊臣秀頼が自ら出馬するも間に合わず大阪城内に退却しました。ほとんどの堀が埋められて裸同然となっていた大阪城に防ぐ術はもはやありませんでした。
14問目の答え
『島原の乱』で一揆軍が籠城した城は?
答え:原城
解説:島原の乱(しまばらのらん)は、1637年に肥前島原半島と肥後天草諸島の領民が、過酷な年貢やキリスト教弾圧に反発して起こした大規模な一揆です。一揆軍は天草四郎を指導者として廃城の原城に籠城し、約12万の幕府軍と激戦を繰り広げました。しかし、兵糧攻めや総攻撃により、1638年に原城は落城し、一揆軍は全滅しました。
15問目の答え
1868年に起きた戊辰戦争の初戦となる戦いは?
答え:鳥羽・伏見の戦い
解説:鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)は、1868年に京都南郊の鳥羽・伏見で起こった、新政府軍と旧幕府軍との戦闘です。新政府軍は、薩摩藩や長州藩などの倒幕派で構成され、旧幕府軍は、徳川慶喜や会津藩などの幕府支持派で構成されていました。新政府軍は、大砲や鉄砲を駆使して旧幕府軍を圧倒し、錦の御旗を掲げて朝敵と宣言しました。旧幕府軍は、士気が低下し、徳川慶喜も大坂城から逃亡しました。
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