戦国時代クイズ(初級編)

織田信長のイラスト

ある調査によると、日本史において最も人気なのが「戦国時代(安土、桃山時代)」だそうです。

そんな人気の戦国時代から、織田信長や徳川家康、歴史的な合戦についてクイズを作成しました。

このクイズに挑戦してあなたの戦国時代への知識を試してみましょう!

初級編をクリアしたら戦国時代クイズ(中級編)にチャレンジ!

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四択クイズ

戦国時代クイズ(初級編)

合格ライン60点~

1 / 10

1. 永禄3年(1560年)に織田信長が今川義元を討ち取った戦いといえば?

桶狭間の戦い

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2 / 10

2. 天文18年(1549年)宣教師フランシスコ・ザビエルが上陸したのは?

フランシスコ・ザビエル

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3 / 10

3. 川中島の戦いで武田信玄と争った、越後国の戦国大名といえば?

川中島の戦い

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4 / 10

4. 天正16年(1588年)に将軍職を返上した室町幕府最後の将軍といえば?

足利義昭

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5 / 10

5. 今川氏真や織田信長が行った、商業を活性化させるための経済政策といえば?

安土城

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6 / 10

6. 天正3年(1575年)織田信長との連合軍で長篠の戦いに勝利したのは?

長篠の戦い

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7 / 10

7. 徳川家康が幼少期に人質として過ごしていたのは?

徳川家康三河英勇傳

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8 / 10

8. 天正6年(1578年)に、キリスト教の洗礼を受けた九州の武将といえば?

大友宗麟

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9 / 10

9. 第11世門主の顕如(けんにょ)が信長包囲網に加わるなど、信長に激しく抵抗したのは?

本願寺顕如

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10 / 10

10. 本能寺の変の後に起きた羽柴秀吉と明智光秀の戦いといえば?

明智光秀

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あなたの正解数は

クイズ挑戦者の平均正解率は 77%

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このクイズの作成者
クイズサイト.jp

歴史好きな人たちにとって、「なぜ明智光秀は主君である織田信長を裏切ったか?」というのは興味の的ですが、歴史学者(一部を除く)にとって「本能寺の変」で織田信長が倒れたことが重要であって、その理由については重要視されていないそうです。出典

戦国時代はいつからいつまで?

一般的には、応仁の乱が勃発した1467年から秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅亡させた1590年までが戦国時代だと考えられています。関ケ原の戦いが起きた1600年や、大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ1615年までという説もあります。 戦国時代クイズ(初級編)

戦国大名とは

戦国大名(せんごくだいみょう)とは、日本の戦国時代に数郡から数国の領土を統一的に支配した大名のことです。領地と民衆を一元的に管理し、土地の武士を組織し、兵役を課し、家法を定め、領内の各階層を統治しました。

クイズの答えと解説

1問目の答え

永禄3年(1560年)に織田信長が今川義元を討ち取った戦いといえば?

答え:桶狭間の戦い

解説:桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は1560年(永禄3年)に、現在の愛知県で起きた合戦です。駿河の大名だった今川義元は尾張に侵攻しましたが、織田信長の奇襲を受け敗れました。この戦いは、信長の躍進や松平元康の今川氏からの自立、長尾景虎の動きが活発化するなど地域情勢に多大な影響を及ぼしました。出典

2問目の答え

天文18年(1549年)宣教師フランシスコ・ザビエルが上陸したのは?

答え:鹿児島

解説:フランシスコ・ザビエル一行は、鹿児島県南部の薩摩半島に上陸しました。日本人で初めてキリスト教徒となったヤジロウの案内で日本に上陸し、各地で宣教活動を行いました。出典

3問目の答え

 川中島の戦いで武田信玄と争った、越後国の戦国大名といえば?

答え:上杉謙信

解説:上杉謙信(うえすぎ けんしん)は、越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将です。武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使っていました。信玄とは計5回の合戦(川中島の戦い)を行いました。実際に川中島(現在の長野県長野市南郊)で戦ったのは第二次合戦と第四次合戦のみですが、第四次合戦が戦国史に残る激戦だったため、総称として川中島の戦いと呼ばれています。出典

4問目の答え

天正16年(1588年)に将軍職を返上した室町幕府最後の将軍といえば?

答え:足利義昭

解説:足利義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代にして最後の将軍です。織田信長の助力を得て上洛し、1568年(永禄11年)に第15代将軍に就任しましたが、信長との関係が悪化して対立し、槇島城の戦いに敗れ京都から追放されました。これにより室町幕府は実質的に滅亡しましたが、その後も鞆幕府(ともばくふ)を樹立するなど将軍として活動しました。豊臣政権樹立後の天正16年(1588年)に義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上しました。出典

5問目の答え

今川氏真や織田信長が行った、商業を活性化させるための経済政策といえば?

答え:楽市・楽座

解説:解説:楽市・楽座(らくいち・らくざ)とは、各地の戦国大名などにより、支配地の市場で行われた経済政策です。それまでの商人は、お寺などの地主に手数料を払って市場で商品を販売していました。また、協同組合に所属していなければ、店を開くこともできなかったのです。信長は楽市・楽座令によって、払わなければならない税金を減らし、誰でも自由に商売ができるようにしたのです。出典

6問目の答え

天正3年(1575年)織田信長との連合軍で長篠の戦いに勝利したのは?

答え:徳川家康

解説:長篠の戦い(ながしののたたかい)は、1575年(天正3年)に起きた織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼の軍勢が戦った合戦です。この戦いの敗北で武田側は多くの重臣を失い、滅亡への途を辿ることになります。なお、有名な「鉄砲三段撃ち」「武田の騎馬軍団」は疑問視されています。出典

7問目の答え

徳川家康が幼少期に人質として過ごしていたのは?

答え:今川氏

解説:解説:三河国の土豪である松平氏は今川氏に庇護されており、家康(当時は竹千代)は人質として駿府(現在の静岡市)で過ごしました。しかし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が敗れて以降、今川氏からの自立をはかります。補足:家康が数えで6歳の時に今川氏への人質と送られますが、途中で裏切りにあい、尾張の織田信秀のもとへ送られ、そのまま2年間人質として暮らしています。出典

8問目の答え

天正6年(1578年)に、キリスト教の洗礼を受けた九州の武将といえば?

答え:大友宗麟

解説:大友宗麟(おおともそうりん)(義鎮)は、北九州東部を平定した戦国大名です。1578年(天正6年)キリスト教の洗礼を受けキリシタン大名になりました。出典

9問目の答え

第11世門主の顕如(けんにょ)が信長包囲網に加わるなど、信長に激しく抵抗したのは?

答え:本願寺

解説:第11世門主顕如の時代、本願寺教団は大名なみの権力を有していたため信長と敵対し、途中数度の和睦を結びながらも10年間にわたり戦い続けました(石山合戦)。信長包囲網が瓦解していくなかで本願寺も抗戦継続を諦め、1580年(天正8年)に信長と和睦しました。出典

10問目の答え

本能寺の変の後に起きた羽柴秀吉と明智光秀の戦いといえば?

答え:山崎の戦い

解説:山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、1582年(天正10年)の本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦いです。この戦いに勝利したことで、秀吉は清洲会議で信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始めました。出典

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フォートナイト最強ですが何か。 へ返信する コメントをキャンセル